1957年(昭和32年)、中国南部で発生した通称「アジア風邪」は、またたく間に香港、日本での感染を通じ世界中にひろがった。まさにいまコロナウイルス感染と同じことがおきた。今回のコロナショックは、1930年代以来の大恐慌だという人がいうが、同様、否、それ以上のことが、つい60年前に起こったのだ。80年歳代の人は明確にその恐怖を覚えているに違いない。人は歴史から学ぶべきである。
アジア風邪は、日本では、敗戦から12年経ち戦後復興の初期段階を終え、次の離陸(Take off)に向かって走り出そうとするときに浴びせかけられた冷水であった。はっきりした数は未だに明確でないが、おおよそ65万人が罹患し、そのうち死者は5,700人を数えた。死亡者には幼児と高年齢者が多かった。1957当時の日本の総人口はおおよそ9,100万人であった。
また、使用にあたっての多くの人々のワクチンの要求と限られた製造量、ワクチンの不足あるいは副反応の心配等から実施に当たって現場で行われた接種量の減量、自治体によって無料であったり有料であったり(多分価格もばらばらだったであろう)、小中学生や幼児・老弱者分を優先としたものの、防衛庁・法務省・電電公社などからの配分の要求、さらに国会や南極観測隊、航空会社などからもワクチン配布の要望があったなどの記録もみられ、予防接種計画や配布計画も早急に立案されたものの、おそらくは大混乱であったことが容易に想像されます。
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ここで述べられたことは、コロナショックの時代に生きるわれわれにとって、貴重な教訓を示しているだろう。二度と同様な混乱を経験することと無い様にしたいものだ。
生命表とそのファイナンス理論との関係については、以下をご参照ください・
アジア風邪は、日本では、敗戦から12年経ち戦後復興の初期段階を終え、次の離陸(Take off)に向かって走り出そうとするときに浴びせかけられた冷水であった。はっきりした数は未だに明確でないが、おおよそ65万人が罹患し、そのうち死者は5,700人を数えた。死亡者には幼児と高年齢者が多かった。1957当時の日本の総人口はおおよそ9,100万人であった。
今回のコロナ禍では、2021年3月現在で、感染者数43.3万 回復者数 41万 死亡者数 7,940 人であった。日本の今の人口が1億2千万人で考えると、1957年のアジア風邪は、今回のコロナ危機に相当する危機であったことがわかる。
戦後の爆発的な人口の増加にあっても、幼児の死亡「率」はそれほどではなかったことにまず注意しなければならない。
下の図は、1947年から2007年までの日本の生命表から算出した、0才児(オギャと生まれてから1歳の誕生日までを迎えた幼児)と1才児の1年間死亡率の時系列プロットしたものである。死亡率は、数値は10万人あたりの死亡者の「比率」である。
死亡率は0歳、1歳の両方とも、右下がりの曲線(指数関数的!な減少)を示している。
矢印で示した1957年を見ると、増加はしないものの、ほぼ同じ数値にとどまっていることに注意しなければならない。
正確な数値を示すと次のようになる。
これに対し、70歳の男女が71歳の誕生日を迎えるまでの1年間の死亡率の推移を見てみよう。下の図がそれを示している。
矢印でしめした1957年の70歳男女の死亡率の、前年に比べて大幅なジャンプが見られる。特に赤で示した70歳男性の死亡率が、女性に比べると高くなっている(前の図とくらべて線の色が逆になているの注意)。
1957年の1月1日に生きていた70歳男女は、今の時代の70歳男女とは大違いなのだ。これらのひとは、50歳代を戦時体制下で生きて、戦後の苦しい60歳代を生き抜いてきた、頑健が人たちなのである。弱い人は、過酷な環境で皆死んでしまったのである。そうした人であっても、1957年におきた新しいアジア風邪インフルエンザを回避できなかった人が大勢いた。そういうことを如実にこの生命表は示している。
なお、参考のために、35歳男女の死亡率の推移を見てみよう。
これをよく見ると、1957年にわずかな増加を示しているが、それは他の時期にも見られる増加とくらべて、顕著であるとは必ずしも言えないほどの増加である。
平均余命をみると、1956年の平均余命63.59歳から、57年は平均余命が63.24歳と、0.35歳だけ低下したのである。
1957年「アジア風邪」でワクチンの接種はどう行われたのか?
これについては、私がくどくど述べるよりも、長くはなるがワクチンの開発と接種にあたり当時の危機的状況の回顧をおこなった以下の岡部論文をを引用することにしよう(岡部信彦「アジアかぜ(アジアインフルエンザ)・香港かぜ(香港インフルエンザ)(前半)」)。
<6.予防接種について>
スペインインフルエンザ流行当時と異なり、アジアインフルエンザ発生時にはすでにインフルエンザワクチンは実用化されており、日本では学童への集団接種が行われていました。しかしアジアインフルエンザは突如として発生した(発生したかのように見えた)新型インフルエンザなので、それまでのワクチンではまず効果のないことは明らかです。それにもかかわらず、一部の地域では国有であったそれまでに使用されていたインフルエンザワクチンが供給されるなどの混乱もあったようです。一方では、新型インフルエンザとして登場したアジアインフルエンザウイルスにかかった東京都内の患者から得られたウイルス(A/足立/2/57)をまずワクチン製造用株と決定し、それと同様の抗原構造を持つウイルスもワクチン製造用株として使えることとして、国内5ワクチン製造会社が緊急に製造にとりかかり、出来上がったワクチンを国家買い上げとすることを決定しています。しかし、新たなウイルス株による製造については技術的に安定しないこともあり、製造に時間がかかり、検定までこぎつけても検定基準に達しないものもでてくるなど、製品化までは時間を要しています。さらに当時西日本水害のため停電が生じワクチン製造工程が一時ストップする、インフルエンザワクチン製造のためにはウイルスを増殖させる有精鶏卵が大量に必要となりますが養鶏業者も被災をしてしまい、鶏卵が供給されなくなったなど、様々な予想外の障害も生じ、当初9月から使用できるよう計画されたものが、実際には第2波が始まった9月から2か月遅れた11月に入って初めて検定合格が出たということになり、大きな混乱となりました。製造量も当初は300万人分の製造が要望されましたが、実際は150万人分が製造されたのみでした。11月以降も新たな製造に取り組み、さらに200万人分の製造が翌年3月末までにおこなわれましたが、2月からは流行が下火となり、ワクチン接種の要望は低下し、
下の図は、1947年から2007年までの日本の生命表から算出した、0才児(オギャと生まれてから1歳の誕生日までを迎えた幼児)と1才児の1年間死亡率の時系列プロットしたものである。死亡率は、数値は10万人あたりの死亡者の「比率」である。
矢印で示した1957年を見ると、増加はしないものの、ほぼ同じ数値にとどまっていることに注意しなければならない。
正確な数値を示すと次のようになる。
これに対し、70歳の男女が71歳の誕生日を迎えるまでの1年間の死亡率の推移を見てみよう。下の図がそれを示している。
矢印でしめした1957年の70歳男女の死亡率の、前年に比べて大幅なジャンプが見られる。特に赤で示した70歳男性の死亡率が、女性に比べると高くなっている(前の図とくらべて線の色が逆になているの注意)。
1957年の1月1日に生きていた70歳男女は、今の時代の70歳男女とは大違いなのだ。これらのひとは、50歳代を戦時体制下で生きて、戦後の苦しい60歳代を生き抜いてきた、頑健が人たちなのである。弱い人は、過酷な環境で皆死んでしまったのである。そうした人であっても、1957年におきた新しいアジア風邪インフルエンザを回避できなかった人が大勢いた。そういうことを如実にこの生命表は示している。
なお、参考のために、35歳男女の死亡率の推移を見てみよう。
これをよく見ると、1957年にわずかな増加を示しているが、それは他の時期にも見られる増加とくらべて、顕著であるとは必ずしも言えないほどの増加である。
平均余命をみると、1956年の平均余命63.59歳から、57年は平均余命が63.24歳と、0.35歳だけ低下したのである。
1957年「アジア風邪」でワクチンの接種はどう行われたのか?
これについては、私がくどくど述べるよりも、長くはなるがワクチンの開発と接種にあたり当時の危機的状況の回顧をおこなった以下の岡部論文をを引用することにしよう(岡部信彦「アジアかぜ(アジアインフルエンザ)・香港かぜ(香港インフルエンザ)(前半)」)。
<6.予防接種について>
スペインインフルエンザ流行当時と異なり、アジアインフルエンザ発生時にはすでにインフルエンザワクチンは実用化されており、日本では学童への集団接種が行われていました。しかしアジアインフルエンザは突如として発生した(発生したかのように見えた)新型インフルエンザなので、それまでのワクチンではまず効果のないことは明らかです。それにもかかわらず、一部の地域では国有であったそれまでに使用されていたインフルエンザワクチンが供給されるなどの混乱もあったようです。一方では、新型インフルエンザとして登場したアジアインフルエンザウイルスにかかった東京都内の患者から得られたウイルス(A/足立/2/57)をまずワクチン製造用株と決定し、それと同様の抗原構造を持つウイルスもワクチン製造用株として使えることとして、国内5ワクチン製造会社が緊急に製造にとりかかり、出来上がったワクチンを国家買い上げとすることを決定しています。しかし、新たなウイルス株による製造については技術的に安定しないこともあり、製造に時間がかかり、検定までこぎつけても検定基準に達しないものもでてくるなど、製品化までは時間を要しています。さらに当時西日本水害のため停電が生じワクチン製造工程が一時ストップする、インフルエンザワクチン製造のためにはウイルスを増殖させる有精鶏卵が大量に必要となりますが養鶏業者も被災をしてしまい、鶏卵が供給されなくなったなど、様々な予想外の障害も生じ、当初9月から使用できるよう計画されたものが、実際には第2波が始まった9月から2か月遅れた11月に入って初めて検定合格が出たということになり、大きな混乱となりました。製造量も当初は300万人分の製造が要望されましたが、実際は150万人分が製造されたのみでした。11月以降も新たな製造に取り組み、さらに200万人分の製造が翌年3月末までにおこなわれましたが、2月からは流行が下火となり、ワクチン接種の要望は低下し、
大量の未使用ワクチンが残ってしまうことになりました。
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また、使用にあたっての多くの人々のワクチンの要求と限られた製造量、ワクチンの不足あるいは副反応の心配等から実施に当たって現場で行われた接種量の減量、自治体によって無料であったり有料であったり(多分価格もばらばらだったであろう)、小中学生や幼児・老弱者分を優先としたものの、防衛庁・法務省・電電公社などからの配分の要求、さらに国会や南極観測隊、航空会社などからもワクチン配布の要望があったなどの記録もみられ、予防接種計画や配布計画も早急に立案されたものの、おそらくは大混乱であったことが容易に想像されます。
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ここで述べられたことは、コロナショックの時代に生きるわれわれにとって、貴重な教訓を示しているだろう。二度と同様な混乱を経験することと無い様にしたいものだ。
生命表とそのファイナンス理論との関係については、以下をご参照ください・
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